秋田県の街道
街道の名前
羽州街道は、江戸時代の資料には「久保田道」や「津軽街道」と記されることもある。
亀田街道は「由利道」や「角館街道」、北国街道は「羽州浜街道」や「酒田道」とも称される。
また、「どこどこへ続く道」というニュアンスで目的地の地名を冠して「○○街道」と呼ぶため、街道沿いの別の土地では、別の名で呼ばれているのが常態であった。
「街道」の語もよく使われるが、「海道」と表記するときもあった。
江戸時代は宛字がよく使われる時代であり、どちらが間違いとは言い難いところがある。
参勤交代の話
参勤の人数
参勤交代の行列の人数は、江戸前期の秋田藩(20万石)では1,000人をこえ、本荘藩(2万石)では延宝5年(1677年)に260人というデータがある。
江戸中期、10万石の大名で280人くらいが標準的とされる。
街道を通過する大名行列の人数は、150から300人くらいが多かったといい、1,000人をこえる行列は珍しかった。
ちなみに加賀百万石では多いときで4,000人規模の行列であった。
また秋田藩では幕末で3,000両前後の費用を費やしたとされる。
参勤のルート

秋田藩であれば久保田から江戸まで約600キロメートルの道のりを14日間~15日間かけて移動した。
ルートは同藩の場合もっぱら羽州街道を利用している。
山形県側から奥羽山脈を越えるとき、江戸時代初期には山形市から東行する笹谷峠越えが用いられたが、のち上山市から東行する七ヶ宿経由のルートに移った。
県内の他藩の参勤ルートは史料が乏しく全貌を明らかにするのは難しい。
亀田藩や本荘藩は、本荘街道を通って矢島領の追方(老方)を通り大沢村(横手市雄物川町)を経由し羽州街道に出るルートを利用したが、江戸時代後半には北国街道と最上川舟運をあわせて利用したこともある。
本荘藩では文化12年(1815年)の下国時に北国街道を通っている。
亀田藩では川大内街道のほか亀田街道も利用したことがあり、矢島街道を経て甑峠を越え及位に出るときもあったという。
(参考)明治28年発行の「秋田県国県道里程」における当時の県道・国道とその主な経由地
- 四十一号国道:秋田~土崎~能代~鶴形~大館~矢立峠
- 四十号国道:秋田~大曲~横手~湯沢~杉峠
- 船川街道:追分~船越~船川
- 大間越街道:能代~八森~岩館~青森県境
- 来満街道:毛馬内~大湯~不老倉~青森県境
- 酒田街道:秋田~新屋~道川~本荘~塩越~山形県境
- 濁川街道:毛馬内~小坂~濁川~青森県境
- 鹿角街道:大館~十二所~花輪~岩手県境
- 阿仁街道:鷹巣~米内沢~阿仁銀山町
- 平和街道:横手~小松川~岩手県境
- 角館街道:大曲~長野~角館~卒田~生保内~岩手県境
- 本荘街道:本荘~館~館合~造山~浅舞~横手
- 鬼首街道:秋の宮~宮城県境
平成20年度秋田県立博物館企画展(4月26日から6月22日)「あきたの街道を歩く」の解説シート「街道のあれこれ」より参照
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